どうも!!全力20%のゆきおです。
さて、一つ目の記事です。
何から書こうかな〜と色々考えて見ましたが、まぁまずはこの話しからにしようと決めました。私のキャラも一発で分かってもらえるし、なにより格闘技好きにはたまらん話しだからです!!ぜひ今度、飲み屋で仲間たちに話してください。バキ好きにはたまらない話だと思います。
さてさて、時代は1950年にさかのぼります。
私の父はブラジルのマトグロソ州のど田舎で生まれ育ち、日々、喧嘩に明け暮れていました。もう田舎過ぎてすることが無いので、とりあえず人を殴っていたそうです(笑)
子供の頃から格闘技の才能があった父は、漫画の主人公のように恐ろしく強かったそうです。まさに無敗でした。時には年上の3人組に襲われたり、時には村の祭りの最中に不意打ちされたり、村の子供たちはこぞって父を狙いましたが、それでも父は連勝し続けました。
そして父が15歳のとき、悲劇は起きました!!
父は村の保安官の息子を半殺しにしてしまったのです(笑)。
当時のブラジルのど田舎の村には、警察なんてありません。村で起きる事件は、村の保安官がすべて個人的な偏見と独断で処理する時代です。まさに独裁者です。
そして、その保安官の息子はというと……もうどういう人物か想像か付きますよね?(笑)絵に描いたゲス男だったようです。いつも大勢の仲間を連れて、我が物顔で村を歩いては、好き放題暴れていたようです。大人ですら彼に逆らうことはできませんでした。簡単に言うと天竜人ですね。
そんな中、保安官ジュニアと私の父はついに対面することになりました。いつものように保安官ジュニアが仲間たちと集まっていると、父が通りかかりました。二人はまだ互いに面識がなかったので、保安官ジュニアは目の前を通る少年が村の歴史上、最強の
悪ガキだとは知らなかったのです。
通り過ぎようとしていく父を見ながら、保安官ジュニアはあることに気づきました。それは父が履いていたズボンです!!おそろしくダサかったのです。水玉模様だったのです!!
(こんな感じ?)
保安官ジュニア「おえ……なんちゅーダサいズボン履いてんだ、お前?」
すると次の瞬間、保安官ジュニアは前歯を宙に浮かせながら吹き飛び、大量の血を流し始めました。父は近くにあった巨大な石を保安官ジュニアに目掛け全力で投げてしまったのです。
保安官ジュニアはおろか、周りの仲間たちも起きたことを理解でず、大パニックが起きました。ジュニアを救うべきか、父を捕まえるべきか、仲間たちは慌てに慌てました。そして仲間の一人が「ダニエル(保安官ジュニアの本名)!!大丈夫か!?」と大声で言ったのです。
その瞬間、父は自分はこの村で絶対にやってはいけないことをたった今やってしまったことに気づき、一目散に逃げました。父が家に戻ると、父の父(私の祖父)は「何をしたんだ!?保安官が血眼になってお前を探しているぞ!!」と激怒しました。
保安官はライフルやら拳銃に弾を詰め、大勢の取り巻きたちと共に村中を駆け回っていたそうです。
そして、父の父が下した判断とは……父を村から追い出すことでした。
父の父「今すぐこの村から出ていけ!!」
どうせ村にいても、父は保安官に射殺され、後に「泥棒をした」など適当な理由をつけられて本部の報告されるのみ。
父は40秒どころか数秒で支度をして家を飛び出しました。でも、水玉のズボンだけは着替えたそうです(笑)
保安官ジュニアを半殺しにしたその日の晩に、父は貨物列車に飛び乗り、そのまま村を後にしました。始めての外の世界だったそうです。
翌朝、目が覚めると父は列車から降りて近くの街を目指しました。何度か長距離トラックのおっちゃんたちにヒッチハイクで乗せてもらって、父がたどり着いた街こそがリオデジャネイロでした。
【もうすぐブルース・リーの話しが出て来ますので、お待ちください(笑)】
当時、60年代のリオは金融がアゲアゲで、まさにイケイケの時代でした。
父はリオの街につくと、まず住むところを探しました。しかし、当時の優雅なリオの街で、父のように乱暴な田舎者を受け入れるような場所はありませんでした。歩きに歩いたあげく、父は中国拳法(北派少林拳)の道場に行き着きました。道場の中で稽古をする生徒たちを見て、父は衝撃を受けました。
「村では喧嘩はしてはいけないと大人たちから言われて来たのに、この人たちは強くなるために努力している。俺も強くなりたい」
父はそう思い、住み込みでその道場に住まわせてもらいました。
そして時が流れ、父は20歳になりました。その頃には、父はすでに道場の師範になっていて、毎日100人近くの生徒を教えていました。大会でも数々のメダルを獲得し、着実に最強の道を歩んでいました。
当時、70年代のブラジルは軍事政権のまっ最中でした。軍が国の頂点にたち、すべてを支配していました。軍に逆らうものは容赦無く処刑という恐ろしい事態でした。
そんな中、二人の軍人が父の道場へ訪れました。二人はタバコを吸いながら汚いブーツで道場へ勝手に上がりました。当時の父にとって、道場は人生のすべてでした。自分の家でもあり、毎日丹念に磨き上げて大切にしている道場。さらには自分の命の恩人であり、自分を拾ってくれた師匠に任されている道場。そんな神聖な場所へ土足で上がるなんて、もってのほか。
父は、さっそく二人の軍人を血祭りにあげようとしましたが、道場仲間に「やめろ!軍人を殴ったら確実に殺されるぞ!!」と止められました。父は、師匠や仲間に迷惑をかける訳にも行かなかったので、生まれて初めて”我慢”というモノをしました。
しかし、軍人の一人が突然大笑いを始めました。父の稽古をバカにし始めたのです。「そんなトレーニングで強くなれる訳ないだろ?お前らバカ?」と100人の生徒の前で父をバカにしたのです。
さすがに父はカチンと来て、軍人と視線を合わせてしまいます。
軍人「なんだ?お前が教えてんのか?ここで俺がお前をブチのめしたらどうなるよ?」
すると、次の瞬間、軍人の顔に父の膝がめり込みました。父の飛び膝蹴りが炸裂したのです!!
軍人は大量の鼻血を出しながら、地面へ倒れる前に気絶しました。もう一人の軍人は慌ててホルスターから拳銃を抜き出し、父へ向けました。父は降参するどろか、すり足で軍人との距離を縮めようとしました。やる気満々だったようです。拳銃を変えている軍人相手にですよ?(笑)
軍人「軍人に手をだしたんだ、殺されても文句は言えまい!!」
道場が静まり帰った瞬間、一人の男が父と軍人の間に立ちました。父の生徒でした。彼は軍に顔が効く男で、軍上層部と繋がりがありました。男は軍人をなだめ、この場は引き取るように言いました。軍人は気絶した仲間を車まで運び、「次会ったら殺す」と一言だけ残して行ってしまいました。
その後、父の生徒である男の努力のおかげで、父はお咎めなしで許されましたが、彼がいなかったら間違いなくあの場で射殺されていたでしょう。
父の人生2度目の窮地でした。この生徒さんがいなかったら、私は生まれていなかったですね(笑)いや〜〜死ぬほど感謝です。まだリオにいたら一度会って見たいものです。
ーーー//ーーー
さて、50年代から90年代初頭にかけて、リオを中心にブラジル全土で「どの格闘技が最強か?」というテーマが持ちきりでした。ブラジルは世界でも類を見ない移民国家ですので、ほぼすべての格闘技が集結していました。
中国拳法、空手、柔道、合気道、テコンドー、ムエタイ、ボクシング、レスリング、カポエイラなどなど。リオの街で習えない格闘技はありませんでした。そして、当然のごとく、道場破りブームが起きました。
まさに、リオは大格闘技時代でした!!俗に言うバリートゥード期です。
夜街を歩けば「お前はどこの道場だ?」と聞かれ、同じ格闘技を習っていない者であれば、その場でリンチーーなんてことも起きる始末。ことがどんどん悪化するため、ついに各格闘技の代表たちは、この問題に終止符を打つために、格闘技無差別トーナメントを開催することにしました。
しかし、ルールの取り決めが難しく、公式な試合にすることが出来なかったため、有名選手たちに出場のメリットがなかったのです。そのため、わざわざ自分のキャリアと関係のない非認定試合に進んで参加しようとする有名選手はいませんでした。参加したがるのは街のゴロツキや闇社会に通じる者ばかり。その結果、どの会場も無差別トーナメントを受け入れず、結局アングラな場所で無差別トーナメントは行われるようになりました。
父も無差別トーナメントには興味がありませんでした。それは、比べなくても自分が使う中国拳法が最強だと信じていたというのもありますし、何よりトーナメントへ出場しなくても、別の格闘技を使う者たちが父の道場へ道場破りしに頻繁に来ていたからです。最終的に数十人の道場破りが父の道場を訪れましたが、父は全員瞬殺したそうです。
しかし、ただ一人の空手家を除いてはーー
いつもの稽古終わり、父が道場を閉めようとすると、その空手家はやって来ました。父は「また道場破りか……」とめんどうに思いましたが、空手家は靴を脱ぎ、丁寧に道場へ一礼しました。
空手家「私は道場破りではない。私は格闘技を探求する者だ。君の噂を聞いてここへ来た」
父は、空手家の紳士な態度に驚き、彼を客人として道場へ招きました。空手家は裕福な家庭で育ち、今まで様々な国へ飛び回り、格闘技を研究して来たと父に話しました。父は、すぐにその空手家が街のゴロツキたちとは別格であることを感じました。街のゴロツキたちは「俺の格闘技が最強だ!」と無根拠に自負するだけですが、その空手家には”格闘技の行く末”を知りたいという純粋な気持ちしかありませんでした。
父は、空手家の気持ちに感化され、本気の組手をすることにしました。
父は今まで数多くの格闘家たちと戦って来ました。空手を使う者と対戦した経験も数えきれないほどありました。もちろん、空手家へ対する対策もバッチリでした。
父の初撃が空手家に入ります。空手家は嬉しそうに「なるほど。これじゃ並大抵の格闘家が手も足も出ないのは当然だ」と言いました。父は、構わず再び間合いを詰めて、もう一発入れようとします。
間合いが十分に狭まり、父が腕を伸ばそうとした瞬間、空手家はまるでボクシングのように父のパンチをかわし、ボディブローを父に浴びせました。
驚く間もなく、空手家は次の技で追撃します。遠距離からの蹴りです。父は紙一重でかわしますが、明らかに今の蹴りは、空手の蹴りではありません。テコンドーの蹴りでした。
その瞬間、父はその空手家が「自分は格闘技を探求する者」と名乗った意味を理解しました。
空手家は父を蹴りで攻め続け、父の背中に壁がつくと、ボクシングの構えへ切り替わり、細かなパンチで父を圧倒します。
空手家は、リオの格闘家たちのように己の格闘技が最強だと満足するのではなく、すべての格闘技を習い、合わせてしまったのだ。まさに、”総合格闘技の母体”を彼は持っていた。
父は、生まれて初めての敗北を知りました。
試合の後、父が拳法家であることを気遣って、空手家が柔道、柔術、レスリングなどの組み技を使わず、打撃のみに制限したことを父は知りました。まさに完敗であった。総合格闘技ルールであれば、きっと父はさらに無残に負けていたことでしょう。
その後、父は空手家と頻繁に会うようになり、彼から別の格闘技を習い始めるようになりました。そしてある日、空手家は父にこう言いました。「今度、アメリカでブルース・リーの公演があるので、彼に会ってくる。公演の後、ブルースは希望者と決まって組手をするらしい」
父はその話に興奮し、いつか自分もブルース・リーと会ってみたいと夢見るようになりました。数ヶ月後、空手家がアメリカから帰って来て、公演で起きたことをすべて父に話しました。
会場はかなりこじんまりしていて、証明を少なく薄暗かったそうです。参加者は50人ほどだったそうです。みな屈強な体をしていて、見るからに歴戦の格闘家ばかりでした。ブルースはひょっと現れて、パイプ椅子に座りながら話し始めました。
彼が話した内容はまさに格闘技の行く末でした。ブルースは、いずれ、すべての格闘技は一つの格闘技に終着するとすでに読んでいたのです。
公演が終わると、ブルースは立ち上がり「全員とは無理だが、10ぐらいなら立ち会ってもいいぞ。希望者は上がってくれ」と言いました。
待っていましたと言わんばかりに、空手家は立ち上がり、ステージへ上がりました。
最初の組手が始まります。
ブルースは「なんでもいい。一番自信がある技を使え」と最初の挑戦者に言います。
大きなガタイをした挑戦者は、ブルースを覆い包むように間合いを詰め、その長い腕でパンチを繰り出しました。しかし、彼の腕が伸びきり前に男は失神しました。
おそらく男はブルースのカウンターをもらったのだが……あまりの早さに空手家は何が起きたかまったく見えなかったそうです。
「次!」とブルースの声が会場に響きます。
空手家は前に出て、次の挑戦者として名乗り出ました。
ブルースは同じように「お前の一番得意な技を使え」と言いました。
二人は構え合いました。空手家はブルースと対面して、久しく感じていなかった恐怖という感情を盛大に感じたそうです。そして空手家は、右の回し蹴りをすることに決め、間合いを詰め始めました。
ここだ!と空手家がタイミングを決め、必死の覚悟で足を上げた次の瞬間、空手家は突然と薄暗い会場の屋根にぶら下がっている照明が見えたそうです。
そして、次に空手家が気がつくと、すでに担架の上でした。その後、空手家が聞いた話しによると、空手家はブルースに回し蹴りを合わせられ、綺麗な蹴りのカウンターをもらいながら宙に舞い、そのまま後頭部を地面にぶつけたそうです。残りの8人の挑戦者も、同じようにさっくりと一撃で倒されたそうです。
おそるべしブルース・リー!!!!!!彼が強いのは映画の世界だけと考えている人も多いともいますが、私は父からこの話しを聞いて、彼が本物の格闘家だということを知りました。
結局、その後ブルース・リーは若くしてこの世をさり、93年に行われた第一回目のUFCでヒクソン・グレイシーがチャンピオンになるまで、無差別トーナメントは各地のアングラな場所で続けられました。
ヒクソンは”ブラジリアン柔術が最強であることを証明することが出来た”と言いましたが、彼の格闘技はすでに柔術ではありませんでした。そして、すぐに総合格闘技の時代が始まりました。
もし、ブルース・リーがもう少し長生きしていたのであれば、きっと総合格闘技はずっと早い段階で完成されていたでしょう。
おわり。